宮城県石巻市、被災地ライブを終えて

瓦礫の町を見るのが怖かった。
哀しみに暮れる人の表情を見るのが怖かった。
テレビでは見て知ってるはずなのに、実際、自分がそこに立ってみることが、
その土地に近づくにつれ怖くなってきた。
東北本線に揺られながら、少しずつ変わっていく町の表情を見ながら、
いたたまれない気持ちにもなった。
「目をそらさずすべて見つめてやろう。」
心の中でそう決意して、
石巻の中心に位置する日和山から、海沿いの街並みを見渡した。
壊滅的な被害にあった女川町の瓦礫の中も歩いた。
大量発生してるハエ、広範囲に撒かれた石灰、なぎ倒されたオイルタンク、
そしてキラキラ輝く穏やかな海…。
そんな光景を見つめ、
自分の中に湧き上がってきた感情は全て歌に込めよう。
そう思った。

3日間で7公演。多い日は1日3カ所、
石巻の避難所を中心にギター1本で歌ってまわった。
他校から転校を余儀なくされた生徒が10数名在籍してる石巻市の
河南東中学校、河南西中学校でまずは歌わせてもらった。
世代の違う中学生の前で何を歌っていいのか戸惑ったのだけれど、
哀しみや空しさや励ましや喜び、
胸にくすぶっている想いはすべて歌にぶつけて歌った。
少しずつ聴いてくれてるみんなの顔が笑顔になっていく。
そんな様がステージから見れたのがうれしかった。
終演後、なぜかサイン攻めにあったけど、
それをきっかけに生徒たちと触れ合えたのもよかった。
どちらの中学校も理解のある校長先生だったし、
こんなぼくを生徒の前で歌わせてくれたことは
貴重なぼく自身の心の宝にもなった。

避難所には様々な事情を抱えた人たちがいた。
あまりに辛い話なのでそれはここには書かないけれど。
みんなダンボールをうまく使って自分の空間を作り、
この夏の暑さに耐えながら、もう4カ月もここに暮している。
大人たちは大人たちの出来ることを。子供たちは子供たちに出来ることを。
長期化する共同生活の中で、それぞれが出来ることをそれぞれにこなしてるようだった。
それは同じ傷を胸に過ごしているひとつのおっきな家族みたいだった。
抽選で当たるという仮設住宅に移動できるときが来れば
またばらばらになってしまうであろう、それまでのひとときの家族。
「がんばってください」なんて言葉は簡単に口には出来なかった。
ただぼくは歌うことで、おこがましくも自分なりのエールを贈った。
オリジナル曲から民謡まで、自分はピエロにでもなったかのような気持ちで
とにかく踊るように歌い続けた。
そして歌い終えた後の拍手がなぜだか妙に心に染みた。
こんな時に歌なんかで人を励まし、心を癒すことがことが出来るのだろうか?
その答えは、聴いてくれていたご老人たちの言葉と表情でしっかり掴むことが出来た。
終演後、ぼくもその家族の輪の中に招かれ、飲めないお酒も飲んだ。
普段は演歌しか聴かないという71歳のおじいちゃんには
「感動しました、明日からがんばろうと思いました」と強く何度も何度も礼を言われた。
それを聞いてるうちにぼくも涙があふれてきた。
その夜はいつまでもその避難所を去りがたかった。

今回このライブのオファーが来なければ、
ぼくは石巻に来ることは多分なかったと思う。
惨事を目の当たりにして、ほころびた胸の穴を大きな力に変えて
被災者のみなさんの前で歌うことをひたすら繰り返す毎日。
こんな経験なかなか出来るものじゃない。
それはマネージャーのようにいつでも横でおれの歌を聴いてくれてた
行動力のある佐藤さんのおかげ。
石巻に行くことが出来て本当によかった。
また石巻に歌いに行くからね。
そう遠くない日に。

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